映画などのブログ

映画評ではなくて感想みたいなものを

『ザ・メニュー』(The Menu)とホラーコメディ(その4)

 

 この作品に関しては、

 ・ヒネリがない、ミステリ(mystery=謎)に乏しい。

 ・スローヴィクの”自爆テロ”みたいなやり方(文字通り)は好きじゃない。

という意見もあるでしょう。

 まあ、この映画はそもそもミステリではない(ホラーではあるが)し、リアリティに富んだ作品じゃない(”コメディ”である)とでも言うべきですか。

 

 それにしても、最後のデザートにスモア( s'more)?

 スモアなるデザートについて全く知りませんでした。なんでも、アメリカ&カナダのキャンプファイアでよく作られる”デザート”だとか(名称は、「some more」に由来するらしい)。高級レストランのデザートに相応しいかどうかと言えば・・・・。

 

 スモアにする必然性があるのでしょうか。スローヴィクにはあったのでしょうね。

 スモアには、チョコレートとマシュマロとグラハムクラッカーが必須です。他のアレ(樽にあるモノ)は要りません。

 

  マーゴ(エリン)にはメニュー(の写し)が最後に役立ちました。  

 

 

 後は付記みたいなもので。

 

・スモア

 主演のイギリス出身俳優さんは”スモア”をよく知っていたのでしょうか? 気になります。

 

・〇〇〇料理店

 複数の人々が見知らぬ土地を訪れて、今までに入ったことのない料理店に入るー

というパターンは、日本の視聴者がなぜか知っている話です。最初の方か、映画のタイトルだけでその後の展開を予測できる方もいるのでは?

 

・素晴らしい水質?

 そもそも小島で美味い料理を食べようとするのは適切なのでしょうか? 水の質は?

 飲み物は外部から持ち込んだミネラルウォーターで良いでしょう。だが、料理に使う水はどうか。

 掘れば上質の地下水が出るとは思えないし、山から清流が流れて来たり、良い湧水が出るとも思えないのですが。生活用水(排水)はどうするのか、エコでは無いような。

 まあ、レンジで冷凍肉をチンすれば良いのかもしれません(電力は?)。

 島での料理ならば、飼っている家畜の肉を丸焼きにして、市販のソースをつけてむしゃむしゃ食った方が良いと思います。フルコース・ディナーなんかではなく(余計なお世話)。

 

・新婚旅行

この話のアイディアは、脚本家が北欧ノルウェイのベルゲン郊外の島に新婚旅行で行った時(レストランで食事もした)に思いついたそうです。まさに、新婚夫の鑑みたいな方です。

 

ホーソーンと希望

島のレストラン名は、「ホーソーン」(Hawthorn セイヨウサンザシ)。

花言葉は「希望」(Hope)。5月に咲く花のため、5月の花(Mayflower)とも言われます。

 「メイフラワー号」で1620年にイギリスからアメリカに渡った清教徒ピルグリム・ファーザーズ)がいました。

 まさか、島を北アメリカ大陸に例えてるわけじゃないでしょうね。

 マーゴはお先に失礼しましたが、最後にあの島はどうなったでしょうか?

 

・MSエンディング

約3年前に見た映画を思い出しました。

 

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『ザ・メニュー』(The Menu)とホラーコメディ(その3)

 

 最後の方で、マーゴ(本当の名はエリン)は空腹を訴えて、”チーズバーガー”とフレンチフライを所望します。スローヴィクはこれを自ら作ってマーゴに出します。

 マーゴは一口食べると、「持ち帰り」(To go)したいと言い、スローヴィクとスタッフたちがこれを認めて、外に出られたことで、彼女は危機をを脱しました。

 

 実は、マーゴはスローヴィクに言われて、燻製場に樽(デザートに必要だと言われていた)を取りに行った外出時に、スローヴィクの住み家に入って、彼の部屋を見ていました。そこには、彼が安食堂の従業員時代の表彰写真が飾ってありました。写真には、今と違った若くて笑顔のスローヴィクがいたのです。

 

 

 これは映画に例えると(たとえる必要があるのか?という異議もあるでしょうが)、以下のようなことでしょうか。

 

 自分が低予算で映画を作っていた時は良かった。自分の考えたものを作れて、毎日の生活にもハリがあった。でも、今じゃ全くがんじがらめだ。

 出資者は興行成績について厳しいし、制作(プロデューサー)は「時間を短くしろ。予算の制約がある。アクションシーンが少ない。もっと面白くしろ」と無駄に口うるさい。批評家は無知で表層的なことしかわからないのに、やたら否定したがる。

 昔が懐かしいものだ・・・。

 

この映画の製作(プロデューサー)、アダム・マッケイ(1968ー)は、元々は脚本家で、後に映画監督・プロデューサーになった人です。

 最初は、NBC放送の人気バラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』の出演者を目指してましたが、あえなく落選。だが、作り手としての才能を認められ、番組制作に関わることになります。1995-2001年までヘッド・ライター(主任放送作家)をつとめます。

 2004年から俳優・コメディアンのウィル・フェレル(1967ー)と組んで映画製作に乗り出します。本人は映画監督・脚本家としての評価を高めていきます。

 

 2010年代になると、より規模の大きい映画の製作・監督・脚本を手掛けることになります。

 

 『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(The Big Short 2015)、『バイス』(Vice 2018)、『ドント・ルック・アップ』(Don't Look up 2021)などの製作費が高く、有名俳優が出演する作品で、いずれも監督をやり、脚本にも関わりました。

 『マネー・ショート』はサブプライム・ローン破綻を予見していた投資家たちを描き、『バイス』では、ブッシュ政権の副大統領ディック・チェイニーの半生を描きました。

 これらはドキュメンタリーではないので、社会派映画というよりも”社会派的エンタメ”と言うべきかもしれません(ただし『Qアノンの正体』(2021)というドキュメンタリーも作りました)。

 

 映画で予算規模が大きくなったり、社会的、政治的なことを扱うと、世間的な風当たりが強くなります。

 プロデューサーのアダム・マッケイの状況もこの映画に反映されたのかもしれません。

 

『ザ・メニュー』(The Menu)とホラーコメディ(その2)

 

 前回は「12人のゲスト」と書きました。なぜか、その中にスローヴィクのアル中の母親がいました。

 

 実は、本当の”ゲスト”は、窓から外の海の方にいたのです。ダグ・ヴェリックは富裕な個人投資家で、新型コロナ(COVIDー19)で立ち行かなくなった店の所有権をスローヴィクから得ることになっていました。しかし、彼は海中に・・・。

 

 12人のゲスト(カネは取る予定だけども)を心からのおもてなしーなどではなくて、断罪するのがスローヴィクの予定でした。

 

 ただ、(タイラーの連れの)マーゴットは完全に予定外のゲストでした。スローヴィクは、彼女に店のスタッフとともに死ぬか、ゲストとともに死ぬのかを選ぶように求めます。マーゴが返答できずにいると、スローヴィクはスタッフ側にすることを選びました。

 奪う側に立つか、奪われるほうに立つか(ただし、この店での立場はかなり時間限定的で、どちら側も結局いなくなるのですが)、そんな問いがありました。

 この辺りは、新型コロナがストーリーに影を落としてるような気がします。

 

 コロナが今と違って猖獗をきわめていた頃に、「Clap for Carers」という行為が流行っていたことがありました。いわゆる「エッセンシャル・ワーカー」に感謝を表すために拍手をおくる活動のことです。特に医療従事者への感謝という面が強かったように思います。

 だが、「エッセンシャル・ワーカー」の方々は、そんな拍手をおくられて喜んでいたのでしょうか・・・? おくる方にとっては、「拍手するのはタダ」(カネは出さなくてよい)だから、やってたような気もします。

 もちろん、「カネ出してるのだから相応のサービスを受けるのは当たり前」とか「給料もらってるなら、ちゃんと仕事しろよ」という傲然とした態度の人々が多いよりもマシですが・・・。

 

 一方で、自分の快適な個室に居続けて十分に仕事を遂行できる人々もいます。他人から見て「どうでもいいような仕事」(エッセンシャルではないモノ)だけれども、この状況下で資産を殖やして、エッセンシャルな人々の何千倍か何万倍も富裕な人だっているのです(投資家とかか?)。「Clap for Carers」って素晴らしい行為ーなんて必ずしも言えないような・・・。

 

 「ケアを与える方か、ケアされる方か」、「疲弊する方か、疲弊させる方か」、「奪われる方か、奪う方か」ーこんな問いも可能なような気もします。

 

 スローヴィクが「自分は奪われる方か・・・」と考えた末に、「最後の最後で”奪う方”に回ってやる」と思ったのかもしれません。今まで、批判して攻撃してきた連中を今度は自分が攻撃してやるんだーみたいに。

 

 この場に居合わせることになったマーゴは、タイラーにエスコート(CGのこと)として出会ったという偶然のせいで、酷い目に遭います。サービスを与える側は、常に危険も伴うようです。

 

『ザ・メニュー』(The Menu)とホラーコメディ(その1)

作品(The Menu) 2022年 上映時間 107分

監督 マーク・マイロッド 制作 アダム・マッケイ 制作国 アメリカ合衆国 

製作費 3000万ドル(約41億円?) 興行収入 7960万ドル(約108億円?)

 

 この作品には、コメディ・ホラーまたはホラー・コメディ映画(comedy horror film)という紹介がある。

 

コメディだって?

 

 この映画を見てて、「ハハハ」と笑える人はほとんどいないと思えます。日本だと(英米人あるいは英語圏の人々は違うのでしょう)。

 また、”コメディ・ホラー”の定義にもよるかも。

 

 日本だと”悪趣味ホラー”のように見る方が多いのでは?

 

 話は、食通タイラーがマーゴットを連れてある島へ出かけることで始まります。

 

 孤島に12人のゲストが有名シェフ(スローヴィク)による最高級のフルコースを味わうために集められるが・・・・ーという設定からして、何か怪しげなものを感じさせます(実は、別に呼び寄せられた者がもう一人いた)。

 

この12人は、美食家、料理評論家、金持ち常連客、落ち目の映画スター、ビジネス・パートナー3人とスローヴィクの母親(アル中)などから成ります。

 

 島の最高級レストラン”ホーソーン”では、最高級のフルコース・ディナーは悪夢の時間に変貌します。

 

 第3コースではゲストの不倫や横領が描かれたトルティーヤが出され、彼らは不快な時を過ごします。そして、第4コースでは、副料理長が・・・。

 ゲストにはパニックが起こりますが、なぜかタイラーだけは平然?としています。

富豪のリチャードはその場を去ろうとしますが、酷い目に。そして、窓から外を見ると、海の方になぜか人がいて・・・・。

 第5コースでは、スローヴィクがある報いを受けることになります。また、男のゲストたちだけが必死の鬼ごっこをやることに。

 

 観客によってはバカバカしいストーリーと受け取る人もいるでしょうし、人によっては、恐怖のどん底に突き落とされた気分になるかもしれません。

 ただし、約3年前に、ヨーロッパを舞台にしたホラーを既に見ている人は、そこまで恐怖を感じなかったかも・・・。

 

 この夜の出来事は、スローヴィクの料理への情熱を挫くようなことをやった人々への復讐劇でした。

 まあ、某レストラン・ガイドで星の数が減ると(星3つが最高点で、星が減るとは店の評価が下がることを意味するというガイドだ)、店の経営が傾いたり、シェフの料理人生命が危うくなるーと言われるくらい、他者の批評や評判は作り手の運命を左右するものです。

 スローヴィクの憤懣やるかたない気持ちや行動もそれなりに説得力がある?のかもしれません。

 

 とはいっても、この映画は料理界の内幕物を描きたかったーというわけでは全くないのでしょう。

 

 モノの作り手が一方的に批評されたり、批判されたり揶揄されるーという通常の状態がひっくり返って、それまで受け身だった作り手が攻撃側に回る、という場面を描きたかったのかもしれません。

 

 アメリカ某賞の受賞歴がない人を(シェフに扮する)主演俳優に配したのも、この作品の一種のユーモアかもしれません。

 

『グリーン・ナイト』(The Green Knight)と不自然主人公(その4)

 歴史的に見れば、ブリトン人(ケルト系)は、アングロサクソン人のブリテン島への侵入によって劣勢になる(複数のアングロサクソン王国が生まれる)のですから、アーサー王伝説によって、ブリトン人の勇猛果敢さや優位さを称えたところで、歴史がどうなるものでもありません。

 しかし、実在したかどうか不明な王国(キャメロット)や騎士たちは、歴史の中に消えてしまったからこそ、今も輝きを放ってるのかもしれません。

 

 

 

 以下は付記のようなもので。

 

・緑の腰帯

 14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』では、城主の妻から「身に着けていれば、殺されることはない」と言われたため、緑の腰帯を受け取ってしまう(城主には渡さず)。

『グリーン・ナイト』では、ガウェイン母がガウェインに「身に着けている限り、危害を受けない」と言って緑の腰帯を渡す。また、城主の妻は、自分の手作りの緑の腰帯を渡して誘惑する(ガウェインは城主に腰帯を渡さない)。

 

・時期

 原作は、クリスマスの宴ではなく、新年の宴に緑の騎士が現れる。ガウェインはクリスマス・イブに城にたどり着いて滞在する。

 

・『バリー・リンドン

 ガウェインが追いはぎに遭うシーンは、『バリー・リンドン』の影響とのこと。

バリー・リンドン』(Barry Lyndon 1975年。 監督:スタンリー・キューブリック、原作:ウィリアム・サッカレー)では、アイルランド生まれのレドモンド・バリーがダブリンに行く途中で追いはぎに遭い、金を失う。

 

・「緑の日」

 緑ーといって思いつくのは、「聖パトリックの祝日(St. Patrick's Day) 」で有名な聖パトリック(パトリキウス)。ウェールズ生まれだが、アイルランドで布教した人で、活躍した時期が5世紀。さすがに”緑の騎士”とは無関係だろう。

 

 

・after-credits scene

エンドロールが終わるまでスクリーンを見続けなくては、少女と王冠は見られない。

 

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『グリーン・ナイト』(The Green Knight)と不自然主人公(その3)

 

 14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』では、主人公はリスト教の徳に合致するような騎士にふさわしい振舞いをした結果、見事にアーサー王のもとに帰還します。

 しかし、本作品のガウェインは、目的地の緑の礼拝堂(the Green Chapel)で緑の騎士からどのように扱われたでしょうか(ここが礼拝堂?という場所だった)?

 

 騎士は、最後に"Now, off with your head"という言葉を述べます(『不思議の国のアリス』では、ハートの女王が似たようなセリフを言ってますね)。

 

 ガウェインが最後に態度を決める前に、自分の未来を見るシーンがあります。

 

 視聴した方の中に、『一炊の夢』(中国唐代の話)や芥川龍之介(1892-1927)の『杜子春』(唐の小説の童話化)、現代小説なら宮部みゆき(1960ー)のいくつかの作品を連想する人もいるかもしれません。

 『一炊の夢』では人生の短さやはかなさが示されます。芥川版『杜子春』(1920年)では、仮の世界で主人公が選択を迫られる展開です。

 人として越えてはいけない限界のようなものがあり、「人は矩(法)を超えてはいけない」と諭してるような感じがします。

 一方で、越えてならない一線をたやすく越えてしまう人々も結構いるーというような不安も感じさせます

 (芥川の『河童』(1927年)では、語り手が河童の世界を体験(という話)しますが、河童の世界は人間の世界とかなり異なっていることがわかります。河童は人外であり人間ではないから当たり前。ところが、話が進むと、河童は人間に似てるのではないか、あるいは、人間の偽りや矛盾を露呈させる存在ではないかと思えてきます。現世での守るべき倫理は絶対的なものかーという考えも浮かんできます)。

 

 『グリーン・ナイト』に戻ります。

 中世社会でキリスト教道徳が確立すると、多くの人々がこれを守り、指針として行動します。守るべき倫理があるというのは非常に都合良くありがたいことです(教会が現世の権力と結託して、人々への支配を強固にしたという負の側面もありました)。

 

 14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』では、ガウェイン卿がキリスト教徒の騎士として相応しい行いをして帰還しますが、本作品のガウェインは想像で帰還しただけでした。

 ガウェインは道徳的な正しい人として行動しませんが、特に非道な行いをしたわけではありません。他人を傷つけたり、嘘で損害を与えたりなどしてません。

 ガウェインが城主やアーサー王との約束を守るのは当たり前。しかし、緑の騎士との約束を守る必要があるのか?

 緑の騎士は明らかに人外であり、いわゆる”この世の人”ではありません。

ですが、アーサー王の言葉に従って”ゲーム”を完遂させるためならば、緑の騎士から逃げるわけにはいきません。理不尽なようですが緑の騎士に身を委ねるしかないのです。

 

14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』では、ガウェイン卿はキリスト教を信仰し己を律したことで、見事に帰還できました。十分に見返りはあったのです。

 本作品のガウェインは特にキリスト教を信仰してるようには見えません。しかし、アーサー王の騎士になるに相応しいくらいの行動(むやみな殺生や詐欺行為をしない)を心がけてる様には見えます。誘惑には弱く己を律することは必ずしもできない人なのかも知れませんが、たかが”ゲーム”によって命潰えることが許されるのでしょうか?

 

 本作では信仰による見返りはありません。ガウェインは騎士(騎士見習いだが)としての運命を引き受けているような感じです。自分の栄光の未来を夢見つつ、それがはかないものだと悟ると、緑の騎士に己の身(首)を差し出すのです。

 

 キリスト教倫理の社会では(他の多くの社会でも)随分と理不尽なようですが。

『グリーン・ナイト』(The Green Knight)と不自然主人公(その2)

 前に、「不条理小説みたい」と書きましたが、この後のストーリーはロードムービーみたいな展開で進みます。

 途中で様々な者に出会う探求の旅ーという感じでしょうか。

 主人公ガウェイン自体が「語るべきものをまだ持ってない」騎士見習いに過ぎないのだから、本人に相応しい旅なのかもしれません。だが、旅の最後に待っているもののことを思えば、矛盾を孕んだ旅とも言えます。

 

 盗賊や言葉を話すキツネや裸の巨人たち(様々な怪異?)などと出会った末に、ようやく目的地にほど近い城館にたどり着きます。

 城では城主から歓待され、彼とある約束をします。

 

 城主は外に狩りに出かけ、一方、城内でガウェインは城主の妻から誘惑されます。

 ガウェインは、彼女から緑の腰帯(green girdle)を受け取り、誘惑に応じようとしますが、途中で逃げて、森の中で城主に出会います(そこでは城主との約束は果たさず)。

 

 ここまでのガウェイン、ヒーローものの主人公としては”失格”の烙印を押されても仕方ないような行動ばかりです。

 

 追剥ぎ(盗賊)たちに襲われると、多勢に無勢であっさり降参して縛り上げられます。聖ウィニフレッドからのある依頼に対しては見返りを要求する(だが拒否される)。そして、あの城主との約束は破るのです。

 まったく意志堅固ではない、ヒーローらしからぬヒーローです。礼節を弁えた騎士ーらしい振舞いはほとんどやっていません。女性に対する態度・責任などは優れた騎士のあるべき姿ーではないでしょう。

 他人への依存心が強いキャラクターではないが、かといって独立独歩で意志強く自分の運命を切り開くような人物には描かれていません。

 

そこがこの主人公の不思議な、不自然な所です。

 普通は、辛い目に遭うと大抵の人は神や仏にすがりたい(イングランドで仏はない?)はず、しかも中世社会の人物だと迷妄だろうと何だろうと、神に縋りつきたいはずです。

 ところが主人公のガウェインは数々の不運な目に遭い(奇妙なゲームで自分の運命を決められる。追剥ぎに襲われるなど)ながら、神を頼りにしようとすることがない。非常に不思議な人物です。

 たとえキリスト教の神を信じてないとしても、何らかの神頼みをやっても不思議ではない状況なのに。

 ところが、この主人公は神頼みはせず、ただ運命に身を任せたのか、緑の礼拝堂に向かって行くのです。

 

 意図的に、非宗教的ストーリー、あるいは脱キリスト教的「アーサー王物語」を作ったのかと思いました。

 

 映画話で原作(それに類するもの)に言及するのが適切かどうかわかりませんが、少々原作について触れますと、原作にあたる14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』と、本作品には相当な違いがあります。

 

 原作は、広い意味でキリスト教的な物語(詩)でしょうが、この作品は、宗教色を排し(異教色を増やし?)、映像美をみせる映画となっています。

 原作は、キリスト教信仰や忠義に篤いガウェイン卿の英雄譚になっています。

”緑の騎士”の正体は明かされ、城主との約束の大切さも理解できます。

 一方、本作品は英雄を讃える内容になっていません。

 

 英雄ならざるガウェインが旅の末に出会ったものは・・・という展開になってます。

 

 信仰心も信念も?持たない非超人的人物ーガウェインだから、この映画の主人公に成り得たのかもしれません。