映画などのブログ

映画評ではなくて感想みたいなものを

『グリーン・ナイト』(The Green Knight)と不自然主人公(その3)

 

 14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』では、主人公はリスト教の徳に合致するような騎士にふさわしい振舞いをした結果、見事にアーサー王のもとに帰還します。

 しかし、本作品のガウェインは、目的地の緑の礼拝堂(the Green Chapel)で緑の騎士からどのように扱われたでしょうか(ここが礼拝堂?という場所だった)?

 

 騎士は、最後に"Now, off with your head"という言葉を述べます(『不思議の国のアリス』では、ハートの女王が似たようなセリフを言ってますね)。

 

 ガウェインが最後に態度を決める前に、自分の未来を見るシーンがあります。

 

 視聴した方の中に、『一炊の夢』(中国唐代の話)や芥川龍之介(1892-1927)の『杜子春』(唐の小説の童話化)、現代小説なら宮部みゆき(1960ー)のいくつかの作品を連想する人もいるかもしれません。

 『一炊の夢』では人生の短さやはかなさが示されます。芥川版『杜子春』(1920年)では、仮の世界で主人公が選択を迫られる展開です。

 人として越えてはいけない限界のようなものがあり、「人は矩(法)を超えてはいけない」と諭してるような感じがします。

 一方で、越えてならない一線をたやすく越えてしまう人々も結構いるーというような不安も感じさせます

 (芥川の『河童』(1927年)では、語り手が河童の世界を体験(という話)しますが、河童の世界は人間の世界とかなり異なっていることがわかります。河童は人外であり人間ではないから当たり前。ところが、話が進むと、河童は人間に似てるのではないか、あるいは、人間の偽りや矛盾を露呈させる存在ではないかと思えてきます。現世での守るべき倫理は絶対的なものかーという考えも浮かんできます)。

 

 『グリーン・ナイト』に戻ります。

 中世社会でキリスト教道徳が確立すると、多くの人々がこれを守り、指針として行動します。守るべき倫理があるというのは非常に都合良くありがたいことです(教会が現世の権力と結託して、人々への支配を強固にしたという負の側面もありました)。

 

 14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』では、ガウェイン卿がキリスト教徒の騎士として相応しい行いをして帰還しますが、本作品のガウェインは想像で帰還しただけでした。

 ガウェインは道徳的な正しい人として行動しませんが、特に非道な行いをしたわけではありません。他人を傷つけたり、嘘で損害を与えたりなどしてません。

 ガウェインが城主やアーサー王との約束を守るのは当たり前。しかし、緑の騎士との約束を守る必要があるのか?

 緑の騎士は明らかに人外であり、いわゆる”この世の人”ではありません。

ですが、アーサー王の言葉に従って”ゲーム”を完遂させるためならば、緑の騎士から逃げるわけにはいきません。理不尽なようですが緑の騎士に身を委ねるしかないのです。

 

14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』では、ガウェイン卿はキリスト教を信仰し己を律したことで、見事に帰還できました。十分に見返りはあったのです。

 本作品のガウェインは特にキリスト教を信仰してるようには見えません。しかし、アーサー王の騎士になるに相応しいくらいの行動(むやみな殺生や詐欺行為をしない)を心がけてる様には見えます。誘惑には弱く己を律することは必ずしもできない人なのかも知れませんが、たかが”ゲーム”によって命潰えることが許されるのでしょうか?

 

 本作では信仰による見返りはありません。ガウェインは騎士(騎士見習いだが)としての運命を引き受けているような感じです。自分の栄光の未来を夢見つつ、それがはかないものだと悟ると、緑の騎士に己の身(首)を差し出すのです。

 

 キリスト教倫理の社会では(他の多くの社会でも)随分と理不尽なようですが。